医療法人社団 竹田眼科
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悠々自適

私は予(かね)てから、老眼あるいは老視と言う病名に強い違和感を持っていました。これは、現代ではとても老人とは言えぬ若々しい40代や50代の人を捕まえて、「あなたは老人の範疇に属しますよ」と言っているに等しい暴言だと思います。確かに「歯、目、○○」の順に故障が出て、老いて行くのは人の悲しい定めです。さりとて現代では老眼の状態になるのは、自他ともに「壮年」期と思っている時期でしょう。誰しも自分が年老いてゆくのはうすうすと自覚していますが、わざわざ他人にそれを指摘されるのを良しとしない年頃です。まだ老け込む歳でもないのに、一寸細かい文字が見えにくくなったからと言って「老眼」と診断するなんて、何て心の無い言いようでしょう。

そこで近くが見えにくくてボケますが、遠くははっきり見える状態を「老眼」以外の言い方で表現できないかと、30年来探し続けてきました。私が読書用眼鏡を必要とするようになってからもうそんなに時間が経ってしまったのかと一寸感慨深いのですが・・・。しかしついに今日、突然名案が浮かびました。「悠眼」というのはどうでしょうか?これまで「熟眼」とか「慧眼」とか「望眼」とかいろいろ考えてきましたが、音が悪かったりコジツケがきつかったりして、どうもしっくり来ませんでした。「悠」の字には何となく余裕を感じます。近くのものを見る為には「老眼鏡」が必用ですが、遠くは(はるかは)明瞭に見渡せるという意味も有ります。何より「悠」の字には否定的な響きがありません。

これまでは、初めて「老眼鏡」をかける妙齢のご婦人方には「老眼と言ってはいけません」、「読書用の眼鏡が必要になったわ」と言って下さいと姑息な逃げを打って来ました。しかしもうその必要は有りません。「悠眼」と胸を張って言えるではありませんか!

悠眼であっても、「余裕眼」の「裕眼」ではありません。ピントの合う距離の幅が狭くなり、遂には遠方にしかピントが合わなくなった状態を「老眼」と言うのですから「余裕の無い目」なのです。またピント合わせの遊び幅が狭くなった状態ともいえるので「遊眼」ではなく「不遊眼」なのです。悠(はるか)をのぞみ、近間のちまちました事はあまり気にならないと言う事で「悠眼」なのです。

近眼の人は老眼になりにくいとよく言われますが、近眼の人でもある年齢になると普通の人と同じようにピントの合う幅は狭くなります。しかし眼鏡なしで、近くの作業が出来ることが多いので(老眼鏡が必要ないので)、老眼になっていないと感じるだけです。遠くがきちっと見える眼鏡をかけた状態では、やはり近くの物は見えにくくなっているのがその証拠です。

私には、「悠眼」という言葉は私のオリジナルだと思えます。しかしこれだけ長い間考えてきたので、誰かのアイデァを知らずに拝借しているかも知れません。もし思い当たる節が有りましたらお教え頂ければ幸いです。縦しんば私のオリジナルでなくても、是非皆さんに使って欲しいと思います。

2014年9月9日、竹田 眞 記

ん!老眼???

40歳を過ぎるころ、誰でも何だか文字を読みたくなくなるものです。ある人は自分の持続力や精神力の衰えと思うでしょうし、目のせいだと思う人も居るでしょう。若いときからめがねの生活をしている人は、最近めがねが合わなくなったのかなとも思うでしょう。

もう30年ほど前のことですが、45歳前後の外科の先生に「最近文字を読むのが億劫なんだ」と相談されました。若かった私は「それは老眼が始まったのでしょう。老眼鏡を作れば楽になりますよ。」と率直に答えました。それも沢山の医者仲間が昼ごはんを食べている部屋の真ん中で!するとその外科の先生は、何ともバツが悪そうに「いやまだそんなに困ってないから」と言うではありませんか。私は、否定してもしょうがないのになあと思うだけでした。40歳後半の人々には「老眼」と云う言葉が「あなたは老人です」と言っているのと同じ事だと腑に落ちたのは、あの外科の先生と近い年頃になってからでした。

私も眼科医として後輩を指導する立場になってきました。そう39歳の秋の事(外科の先生よりずっと早くに)、目がかすむのが気になり始めました。特に英文を朝一番で読んだ後に、一寸離なれたカレンダーの字がにじんで、よく読めないのです。最初は「仕事のし過ぎだな」と思っていましたが、度重なるとようやくこれが「老眼」の始まりだと気付きました。私はこっそりと馴染みの眼鏡屋さんを訪ね、「老眼鏡」を作りました。使うのは誰も居ない自分の部屋でだけ。そうこうしているうちに何時しか「竹田先生は老眼鏡をかけている」と認知され、とうとう私の「老眼」カミング・アウトとなりました。「先生も老眼になったんだね」、「いやいや読書用のめがねが必要になっただけだよ」、「その状態を老眼と云うんですよ」とは鬼の首でも取ったように喜ぶ後輩との問答です。

爾来、私は「老眼」と「老眼鏡」と云う言葉が大嫌いになりました。その頃考えたのは「熟眼」(熟年、熟女)、「望眼」(近方のみを見ない)、「慧眼」(真実を見抜く目)、「観眼」(観光の時も全体を見ている)などのネーミングでした。どれもしっくりしません。要するに「近くの細かい事は見えないが、遠方は良く見えるので大局は把握できる」状態を文学的にそして簡潔に表現したいのですが、良い言葉が浮かんできません。「ちまちました細かい事などに拘泥せずに、もっと大局的に物事を見なさいという身体からのメッセージだ」といくら強弁しても所詮負け犬の遠吠えです。しかも「老眼、老視」は純然たる学術用語なのです。

結局は、「あなたの目は老眼ではありません。ただ読書用眼鏡が必要な目です」「私は老眼という言葉が嫌いです。老眼とは老人の目なので、(老人とは云えない)あなたには相応しい病名ではありません」「まあ、あまり細かい事ばかり気にしないようにという身体からの警告と思ってください」などとお茶を濁すのが私にとって最大の抵抗です。

昔から、「使っていなければだめになる」(廃用性萎縮)という考え方があります。運動をしなければ筋肉は落ちますし、適当に頭を使っていなければ頭も上手く働いてくれません。それと反対に、「老眼鏡」を掛けないで頑張れば「老眼」が進まないはずと頑張る人もいます。文字を読まない生活の人にはある程度通じる話かも知れませんが、現代の生活では無理というものでしょう。痩せ我慢せずに「読書用眼鏡」を便利に使うことを進めます。

また近眼の人は「老眼」にならないといわれますが、基本的には近眼の人も老眼状態になります。ただ、ごく一部の運の良い人がめがねをかけずに本が読めるということであって、殆どの近眼の人には「読書用眼鏡」が必要です。だれでも年をとるとピント合せの幅が狭まくなる焦点深度が浅くなる?)のです。

「老眼」を手術で治そうという試みもされていますが、「老眼」とは目の中のピント合わせをする筋肉やレンズの老化が問題ですから、根本的な治療とは云えません。もともと不老不死が無理だとは秦の始皇帝の時代から覆す事のできない事実ですから、「老眼」も治るはずがありません。それなら、人類初めての人工臓器である「老眼鏡」を便利に使おうでは有りませんか!米国でも" Reading Glasses"といって便利に使っていますよ。

2010年10月14日、竹田 眞 記

第二回「歪んだ天使」

今回は漢方治療がとても有効であった例を紹介します。患者さんは年配の主婦の方です。現在は優しいご主人と二人暮らしで、本州に嫁いだ娘さんには天使のように可愛いお孫さんがいます。先日、娘さんが帰省することになり、久しぶりにお孫さんと対面できたのですが、可愛らしいはずのその顔がなんとなく変に見えました。左目をかくして右目でみると、お孫さんの目や鼻がゆがんで見えていました。一瞬孫の顔がどうにかなってしまったのかと思いましたが、すぐに自分の右目がおかしいことに気が付きました。ほかの所を見ても、見ようとする場所を中心にゆがんでいる部分があるのです。

網膜の病気では有名なある病院の眼科を訪れました。診断は網膜色素上皮剥離(もうまくしきそじょうひはくり)という聞いたことのない病気でした。今話題の加齢黄斑変性症状と症状は似ているが、それほど悪いものではない。しかし有効な治療法もない旨を告げられました。次の診察は3ヶ月後でよいとのこと。不安になった彼女は、たまたま私の診療所を受診し病気に関しての意見を求めてきました。確かに前医の言うとおり、西洋医学的治療は有効ではないが、漢方治療ならときには良い効果があることをお話すると、「それじゃ、やってみましょうか」ということになりました。体について色々な質問をしながら、もう一度顔をしげしげと拝見し、舌の状態をチェックし、両手首の脈を取り、腹部全体をなでまわし(これが漢方的診察です)、結果、防已黄耆湯(ぼういおうぎとう)という漢方薬が有効であると診断しました。そしてしばらくのあいだ服用を続けると、右目のゆがみは以前より弱くはなってきましたが、完全には良くなりませんでした。4年位良くなったり悪くなったりの繰り返しでしたが、ある時精神的にも肉体的にも強いストレスがかかり、ついに左の目にもゆがみが発生してしまい、更に右目のゆがみもひょうたん型に大きくなってしまいました。通常のケースとは何か異なるものを感じ、もう一度漢方的診察をし直しますと、驚くべきことに今度は八味丸(はちみがん)という漢方薬が有効である状態に変わっていました。おそらくは前述のストレスが主な原因と考えられますが、完全に別の体質へと変化していたのです。早速漢方薬を変更して、首の後ろにハリもしましたところ、左のゆがみは4ヶ月弱で治り、右のゆがみも約12ヶ月で治りました。もちろん症状が消えると共に、網膜色素上皮剥離も消えました。決して短いとは言えない年月ではありましたが、ようやく患者さんはお孫さんの顔がよく見えるようになりました。

西洋医学的な見地より、病名の付かない病気や治療法の無い病気に漢方を用いて効果があり、患者さんの喜ぶ顔に出会えるのは、我々漢方医にとってこの上ない幸せです。西洋医学の最新の治療法に遅れないように努力するのは医師の務めですが、それに加えて漢方治療を適切に行うことができれば、患者さんの幸せに大きく寄与できると思います。しかし私にとってはどちらの治療法も極めるにはほど遠く、「日暮れて道遠し」の感を強くしている今日この頃です。

2009年6月30日、竹田 眞 記

第一回「眼科の病気と漢方」

よく「腹も身のうち」といい、おなかをこわさないように注意されています。体のどんな部分でも、体の他の部分とまったく関係なしではいられません。どんなに関係ないように見えても意外な関係があったりします。体の中心にある「おなか」が体のほかの部分から色々な影響を受けているのはどなたでも賛成してくれるでしょう。同じように「目」も体の一部ですから体全体から色々な影響を受けています。

現代の医学では専門が細かく分かれていて、昔の医者のように患者さんの苦しみを全体的に(全人的に)受け止めるのは苦手な傾向があります。私の専門は眼科ですから、頭のことも耳のこともおなかのこともよく知らず、もちろん患者さん全体を診る目はありません。目の病気は眼科だけで診断から治療まで完結できるようにと努力してきました。しかし眼科の知識や技術だけで解決できない病気があるのも事実です。たとえば目に異常を来たした頭の病気は脳外科へ、眼科で発見された高血圧や糖尿病はそれぞれの専門の医師へ治療をお願いします。このように医師同志の協力が必要な時代でもあります。

私は現代の眼科学を学ぶ傍ら、かれこれ30年ほど前から漢方薬やハリ治療を学んできました。漢方薬やハリ治療の一番の特徴は、体全体のバランスをとることに主眼がおかれていることです。どんな病気も体の一部分のみが病んでいるのではなく、体全体のアンバランスが結果としてある部分の病気を引き起こしているのだと考えます。したがって治療の目的は体全体の不調和を治すこととなります。一つのアンバランスが体の色々な部分の病気を引き起こしますので、一見関係の無いような色々な病気を一つの漢方薬で治せるのです。

現代の医学でも治せない病気があります。研究し、勉強し、工夫をいくらしても治せないのです。ほかの科の医師に相談しても良い返事がありません。こんな患者さんに出会った時、発想を切り替えて漢方薬やハリ治療は効かないだろうかと考えます。もちろん行き詰まった患者さんの全てが満足するわけではありませんが、なかには思わぬ効果があって、患者さん共々手を取り合って喜ぶようなこともあります。まだまだ達人の域には達していませんが、漢方薬やハリ治療で患者さんの役に立てれば嬉しい事です。

2009年1月5日、竹田 眞 記